公式サイト: http://jcff.jp/
20世紀最高の芸術家による珠玉の傑作が、美しい映像でスクリーンに蘇る
【終映日:2023年3月31日(金)】
【監督】ジャン・コクトー
マーメイドフィルム/DCP
3月18日(土)〜3月24日(金) |
09:15〜 |
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3月25日(土)〜3月31日(金) |
19:05〜 |
一般 | 大専 | シニア | |
通常 | ¥1,500 | ¥1,200 | ¥1,200 |
会員 | ¥1,200 | ¥1,200 | ¥1,200 |
ジャン・コクトー讃 山田宏一(映画評論家)
ジャン・コクトーの『美女と野獣』は、私が見たはじめてのフランス映画だった。あまりの美しさに目がくらんだ。フィルムそのものがきらめき、かがやいているように見えた。
美女の涙の滴がダイヤモンドになってこぼれ落ちる。歌舞伎の鏡獅子にヒントを得たという野獣のメークが仮面ではないことにおどろく。暗い魔法の森を抜けて白馬が美女を乗せて野獣の館にみちびく。白い大きなカーテンがゆらめき、はためく長い廊下をすべるように音もなく美女が進んでくる。「私はあなたのドアです」とドアが人間の言葉で挨拶をして、ひとりでに開き、美女を迎え入れる。鏡もやさしく美女に語りかける──「私はあなたの鏡です。美女よ、あなたの考えていることを映して見せましょう」。
まるで、いや、これこそまさに、オトギの国、不思議の国の物語だ。鏡を通り抜けて時空を行ったり来たりするなんて。そして、もちろん、「むかし、むかし、あるところに…」ではじまる映画である。
フランス映画に熱中した私はのちにフランス語を学び、メルヴェイユ(merveille)──驚異の魅惑あるいは魅惑の驚異、とでも訳すべきか──という表現がジャン・コクトーの映画のためにあるのだとすら思ったものである。スローモーションなど、字義どおりの「のろい動き」でなく、ジャン・コクトーの手にかかると、驚異的な魅惑の映画技法になった。醜悪な野獣が美しい王子さまに変身して、美女と手に手を取って飛び立つ一瞬の、水が渦巻く響動(どよもし)のようなスローモーション──空高く雲のように王子と王女は浮かび上がる。あるいは『オルフェ』の黄泉(よみ)の国から現世へ帰還するときの果てしなく深く長いスローモーション──あの世とこの世の間にうごめく泡のような、影のような、物売りの声まで聞こえたような気がする。石の彫像が呼吸し、必殺の矢を放ち、死の使徒がオートバイに乗ってやってくる。閉じられた瞼には大きく見開かれた眼が描かれて永遠に眠ることのないきびしく美貌の死神。映画とは「活動中の死」を描くことだと詩人は誇らかに言うのだ。
ジャン・コクトーがはじめて映画に手を染めたアヴァンギャルドの名作、『詩人の血』には、天井を這う小さな女の子とか心臓を盗む黒い天使が出てきたと思う。半裸の詩人がプールのような鏡にとびこむと水しぶきをあげて鏡の向こうに抜けられるとか…早くも多彩なイメージの遊戯の洪水だ。
ジャン・コクトーならではの「詩的」な、そして「映画的」な台詞やナレーションの協力があってこそ成功した映画もある。ジャン・ドラノワ監督の『悲恋』やジャン=ピエール・メルヴィル監督の『恐るべき子供たち』はしばしばコクトー/ドラノワ作品、コクトー/メルヴィル作品とよばれて知られてきた名作だが、ロベール・ブレッソン監督の最高傑作と言ってもいいし知られざる名作と言ってもいい『ブローニュの森の貴婦人たち』のために書かれた台詞の見事さを知る人は少ないかもしれない。ジャック・ドゥミ監督『ローラ』やフランソワ・トリュフォー監督『柔らかい肌』には『ブローニュの森の貴婦人たち』の台詞からの心のこもった引用があることに気づかれた人はもっと少ないだろう。
ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)とよばれたフランスの若い世代の映画作家たちはジャン・コクトーの自由奔放なインスピレーションに刺激され、敬意を表した。ジャン=リュック・ゴダールは『勝手にしやがれ』でデビューする直前に撮った短篇映画『シャルロットとジュール』をジャン・コクトーに捧げた。ジャック・ドゥミは心からの敬意をこめて『美女と野獣』のリメークとも言えるオトギの国の物語、『ロバと王女』を撮った。フランソワ・トリュフォーは『大人は判ってくれない』のヒットで得た収益の一部をジャン・コクトーの遺作になった『オルフェの遺言』の製作に注ぎ込み、『緑色の部屋』の死者たちの祭壇の中央にジャン・コクトーの遺影を飾った。ジャン・コクトーもまた、『オルフェの遺言』をヌーヴェル・ヴァーグへの最後の挨拶、自らの「告別」の映画として撮り上げたのであった。
心ときめく映画史の響宴に立ち会えるジャン・コクトー映画祭だ。
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