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人はそれでもなお、信念を貫けるのか。巨匠アンジェイ・ワイダ監督、心震わす渾身の遺作!
【終了日:9/1(金)】
【監督】アンジェイ・ワイダ
【キャスト】ボグスワフ・リンダ,ゾフィア・ビフラチュ,ブロニスワバ・ザマホフスカ,クシシュトフ・ビチェンスキー,シモン・ボブロフスキ
2016年/ポーランド/99分/アルバトロス・フィルム/DCP
8月19日(土)〜8月25日(金) |
11:45〜13:25 |
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8月26日(土)〜9月01日(金) |
09:05〜10:45 |
一般 | 大専 | シニア | |
通常 | ¥1,800 | ¥1,500 | ¥1,100 |
会員 | ¥1,500 | ¥1,200 | ¥1,100 |
【ワイダ監督の言葉_
“長い間、ある芸術家__ある画家の物語を映画にしたいと考えていました。”】
ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの映画を作ることにしたのは、彼がポーランドの芸術家の中で最も才能ある芸術家の一人であり、社会主義政権の弾圧により、人々の記憶から消し去られてしまったためです。ストゥシェミンスキは、近代美術の方向性を深く理解していました。彼は著書の中でそれについて述べています。主題絵画やポスト印象派はすべてを語りつくしているため、芸術家に残された唯一の選択肢は抽象絵画であるという信念は、社会主義政権に抵抗する力を彼に与えました。彼は非常に優れた教師でもあり、さらには1934年、ウッチに世界で2番目となる近代美術館を設立しました。
『残像』は、自分の決断を信じ、芸術にすべてをささげた、ひとりの不屈の男の肖像です。映画は、ポーランドの社会主義化が最も過激な形を取り、社会主義リアリズムが芸術表現に必須の様式となった、1949年から1952年までの重要な4年間を描いています。
私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の威厳ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これらは過去の問題と思われていましたが、今もゆっくりと私たちを苦しめ始めています。どのような答えを出すべきか、私たちは既に知っている。そのことを忘れてはならないのです。
アンジェイ・ワイダ 2016年、初夏
【2016年10月9日、アンジェイ・ワイダ監督が急逝した。享年90。
世界から尊敬される巨匠が死の直前に完成させた作品は、戦後の社会主義圧政下で、
自らの信念を貫き、闘った実在の芸術家の姿だった――。 】
第二次大戦後、ソヴィエト連邦の影響下におかれたポーランド。スターリンによる全体主義に脅かされながらも、カンディンスキーやシャガールなどとも交流を持ち、情熱的に創作と美術教育に打ち込む前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ。しかし、芸術を政治に利用しようとするポーランド政府が要求した社会的リアリズムに真っ向から反発したために、芸術家としての名声も、尊厳も踏みにじられていく。けれども彼は、いかなる境遇に追い込まれても、芸術に希望を失うことはなかった。“芸術と恋愛は、自分の力で勝負しなければならない――”その気高い信念と理想は、いまの不確かな時代にも、鮮烈な光を残していく――。
ワイダ監督が放つ最後のメッセージが、いよいよ公開となる。本作は監督の死の一か月前、トロント国際映画祭マスター部門で世界初上映され、2017年アカデミー外国語映画賞ポーランド代表作品に選ばれている。
『残像』は、ポーランド人の画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893~1952)の晩年の4年間を描いているが、アンジェイ・ワイダが生涯を通して追求し続けたテーマを凝縮させたかのような、まさに遺言と呼ぶにふさわしい作品に仕上がっている。
【ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキについて】
ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893―1952)、ポーランドの画家。ウニズム理論の共同提唱者。マレーヴィチ、シャガール、ロトチェンコの友人にして弟子。両世界大戦間期に最も国際的に認知されたポーランドの芸術家、美術理論家、教育者。
ポーランドが三国分割による亡国状態にあった1893年にミンスク(現ベラルーシ)に生まれた。1911~14年に、ペテルブルクの軍技術学校で学ぶ。第一次世界大戦にロシア軍工兵として出征し、1916年に重傷を負って、片手片脚を失った。1918年から、モスクワ、ミンスク、スモレンスクなどで画家としての活動を始めた。ポーランドが独立を回復してから2年後の1921年、ヴィリニュス(現リトアニア)に居を移した。1927年に、ワルシャワで個展を開いた。1931年ウッチに移り、32年以後パリを拠点とする国際組織Abstraction-Créationに所属した。1930年代から、ポーランド構成主義の前衛画家として国内外で高く評価されるようになった。
『海』『風景』『ウッチ風景』(1931―33)『ウニズム的構成14』(1934)が戦前の代表作。1948~49年には、太陽を見たときの視覚的反応を描いた連作『残像Powidoki』を描いた(映画のタイトルはここからとられている)。
第二次世界大戦前のポーランドのフォーマリズム(作品の主題や内容よりも、形式的諸要素(輪郭線、形態、色彩など)を重視する美学的な方法)の体現者の中で最も有名であったが、戦後のポーランドの社会主義政府が実施した意図的な政治活動によって、葬り去られた。
1930年に、妻のカタジナ・コブロなどとともに、ウッチ美術館を創設。主に20世紀以降の美術の収集を担当した(同美術館は、今日でも、著名な前衛美術作品を多数収蔵していることで知られる)。1945年には、ウッチ造形大学(現ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ記念ウッチ美術大学)の設立に寄与し、自らも教鞭をとった。 著書に『絵画におけるウニズム』(1928)『空間における構成――時空間のリズムの算出』(1932、コブロとの共著)『機能的印刷』(1935)がある。未完の『視覚理論』(1948―49)は、死後の1958年に出版された。
カタジナ・コブロ(1898―1951)とは、1916年に、モスクワの病院で知り合った。第二次世界大戦直後、宗教観の違いなどから、美術家夫婦は別居を決断する。二人の間に、一人娘ヤコビナ・インゲボルガ(ニカ)・ストゥシェミンスカ(1936―2001)がいる。彼女は、後年精神科医となり、回想録『芸術・愛情・憎悪――カタジナ・コブロとヴワディスワフ・ストゥシェミンスキについて』を遺した。
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